きらきらしている。

舞台が好きな話とかをします。

一番印象に残っている「変わり者」な担任の話

 

◆最初のホームルーム 

私の中学2、3年の頃の担任の先生は端的に言うと「変わり者」だった。
四六時中白衣を着ている理科担当のI先生。
確か私が1年生の時は3年生の担任だった。

まず、なにより第一印象が衝撃的だった。
クラスメイトはきっと今でも忘れないだろう。

 

「俺の母親がもうすぐ死ぬかもしれない」

 

始業式を終え、2年1組の新しい環境にわくわくしながら座席に座り、必要なプリントなどを配り終わったホームルームで、I先生はおもむろにそんなことを言った。一瞬にして水を打ったようにクラス中が静かになった。

 

「どれくらいかは分からないけどそろそろ危ない」
「きっと1年以内には(亡くなってしまうだろう)」
「その時にお前たちに迷惑をかけるだろうし、その後教師を続けるかは分からない」

 

初対面約40名の13歳の生徒たちを前にして、いきなりロートーンで放たれた衝撃的な言葉の数々に、誰もがまさか冗談なんて言えなかった。ヤンチャな男子もギャル予備軍の女子も、誰もが少し俯きながら話を聞いていた。いやいや、何でそんなこと新学期最初のホームルームで言うの???? もうちょっと打ち解けてからでもよくない??? なにより、めっちゃ気まずい・・・・・・・・・・・・・・・。当時、13歳の私は正直そう思っていたし、きっとクラス全員、大体同じような心境だったと思う。

 

開けっ放しの扉から、2組と5組の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。いいな、あの2クラスの担任は1年の時から持ちあがりだし、どっちも体育の先生だからユーモアも熱量もある。絶対楽しいホームルームなんだろう。いいな。こっちなんかいきなり白衣に眼鏡の寡黙そうな先生から、母親がじきにお亡くなりになるカミングアウトされて最早ここがお通夜状態なのに・・・・・・。新学期早々、ホームルーム終了のチャイムが鳴るまで私たちは神妙な顔をして、沈黙に耐え続けていた。13歳の春にしては、なかなかな体験だった。

 

◆変わった担任、になった瞬間。

衝撃的なホームルームの後なのでクラス全員が身構えてたような気がするが、意外にもその後お母様の話を引っ張ることもなく、ただの「寡黙な担任」という認識で日々が過ぎていった。また、授業が本格的に始まると淡々とした中でも結構茶目っ気があるのではないか、という部分も見えてきた。
そして何より、「寡黙な担任」から「変わった担任」に認識が変わったのが、授業だかホームルームだかで少し時間が余ったタイミングに先生が話し出した内容だった。「先生なんか面白い話して~」誰かが勇敢にもそんな雑なフリをした時に、I先生は少し考えてこう切り出したのだ。

 

「じゃあ怖い話でもするか」

 

そして先生は話し出した。
先生が別の学校で教師をしていた時の話だ。卒業式の時に体育館のステージ上に貼る大きな壁画、っていったら伝わるかな? クラスごとに担当部分を教室で作成(うちの学校は毎年貼り絵だった、色画用紙ちぎるやつ)して、それをくっつけて大きな1枚の絵にするやつ。先生は放課後に全クラス分のそれを体育館に飾って完成させる担当だったそうだ。放課後、部活も終わって誰もいない体育館で、でっかい脚立に座って、仕上げをしていた。先生は絵が描けるようで、絵の具を使ってクラスごとに思い思いに作った壁画をひとつの「作品」として見れるように仕上げを頼まれていたらしい。ステージ上、壁画を飾っている奥に向かって作業をする。照明もステージ上しか点いておらず、バスケ部やバド部、バレー部が練習をしていた体育館自体は誰もいないので真っ暗だ。

先生がしばらく作業をしていると、はっきりと、バスケットボールをドリブルする音が聞こえてきた。ダムダム、というあれだ。
ダムダム、ダムダム。もちろん完全下校時刻はとっくに過ぎており(9時くらいだったと言っていた)、そもそも照明がついていない上にボールも体育倉庫にしまってあるはずなのに、ありえない。しかもタイミングが悪く、絵筆を洗っていた絵の具バケツの水を取替えにいかなければならない。水飲み場は体育館の入口のすぐ傍だが、どうやってもそのダムダムしているコートを通り抜けなければいけない。意を決した先生は、脚立を降り、バケツを持って、振り返る。
ーーダムダム、という音はピタリと消えた。
それでも無言で、なるべく壁に沿って歩く。水飲み場の蛇口で新しい水に替えて、また壁側を無言で歩く。明かりの灯ったステージ上に戻り、また脚立にのぼって絵の続きに取り掛かると、再びダムダム、とドリブルの音が響き始めたという。

 

「いや、俺すごく心霊体験はあるんだけど、実物はどうしても見れないんだよなあ、残念だ」

 

心底残念そうに先生はそう語った。めっちゃ見たいらしい。
あ、この人変な人だ。そう思うと、新学期早々のホームルームでの発言もこの先生「らしく」感じ、急にI先生の人気は上がっていった。

 

◆時間が余れば「怖い話して!」とせがむ我々

思春期真っ只中、普通と違ったことに憧れる中学二年生であった我々にとって、「担任が心霊体験談を語ってくれる」というのはちょっとした自慢になった。理科の授業も時間が余るたびに「先生怖い話して~!」とギャル予備軍やチャラ男予備軍たちがきらきらした目でせがむ。(ギャルってこういうタイプの先生好きだよね)一度それで授業が進まなくなった時なんか「わかったわかった、話の代わりに心霊写真持ってきてやるからそれで我慢しろ」とか言って、職員室か科学準備室の自分のデスクから心霊写真を持ってきてくれたこともある。(普通学校の机に心霊写真いれとくか?)昔からの仲である知り合いと山登りが趣味であるという先生が、鬱蒼と茂る森の中(道とかない)でにこっとピースサインを向けている写真は、もう数え切れないほどのオーブに包まれており、あれとこれが顔に見えるとその日は大盛り上がりだった。

 結構沢山の話を聞いたはずなのに、覚えているのが最初の体育館と、森の中の心霊写真と、あとは猫の首が入っていた話だけなのが悔しい。他に覚えている人いたら教えてほしいレベルだ。体験談だけではなく、今でも聞いたことのないような怖い話をすらすらと語ってくれる先生だった。本当に怖い話がすきなんだろうな、今考えるとかなり語り上手である。訥々と喋るものだから、クラスが聞き漏らすまいとシン、とするのも「らしかった」し。修学旅行の帰りの新幹線とかも、あちこちでトランプやUNOで盛り上がる中、先生のところに何人も集まって怖い話を聞いていた。猫の話はその時に聞いた気がする。

 

◆I先生の「変な実験」と「危ない趣味」

話は変わるが、I先生は理科の教師だ。(多分科学専攻?)
先生はよく、自分を実験台に変わった実験をしていた。
「人間はどこまで白米を食べずに生活できるか」を試していた時は、給食の白米を食べずにいたし、北海道の冬だというのに「何度までならストーブをつけずに生活できるか」を調べていた時は「いや~、今日は危なかった」と毎日報告をしていた。(マイナス9度でギブアップしていた)とにかく、「その実験って意味ある?」と思うようなヘンテコな実験ばかりしていた気がする。そして、前述したように先生の趣味は山登り(道なき道を進むのが好きらしい)で、土日によくあちこちへ赴いていた。とある月曜日、朝のホームルームで先生はこんなことを言っていた。

 

「昨日行った森、歩いてたら崖に行き当たって、せっまい道を張り付きながら進まなきゃいけなくってな。落ちたら一発アウト。危うく今ここにいないところだったわ


ははは、と先生は小さく笑っていたが割りと笑い話じゃなかったし、私はその話を聞いてその時ちょっと前にやっていたドラマ「雨と夢のあとに」の主人公:雨(黒川智花)の父親(沢村一樹)を思い出していた。幻の蝶を求めて台湾に渡って、崖から足をすべらせて森の中で命を落とすやつ。幽霊となって娘のもとに戻ってきて、幽霊であることを隠したまま生活するって感じの導入。つまり「私たちが見えている先生は実は幽霊かもしれない」っていう面白い妄想を一瞬したのだ。さすが中学生。

 

 

◆進路相談と科学準備室と絵

しかし、印象に残っているのは、変な話ばかりではなかった。
3年になると本格的な進路相談が始まった。
三者面談と呼ばれる、親、担任、自分で話すもの(教室でしっかりやる)の他に、個別に先生と話すものがあって、そっちは放課後に、先生のものがごちゃごちゃと置いてある科学準備室で行われた。準備室があてがわれている教師って、職員室より過ごしやすいのか、そっちにめちゃめちゃ私物を持ってきてたりするイメージがあるけど、I先生も例に漏れずそのタイプで、薬品棚以外の場所に所狭しと私物があって、しかも薄暗くて、今思い返せば小説とかで出てくる偏屈な大学教授の部屋、って感じだ。(私は専門学校に進んだため実際の大学の様子はわからない)更に、今こうして書きながら思い出すと、その狭い科学準備室は先生の机しかなかったような気もする。他の先生はどうしてたんだろう、と思い直すけど、そもそも白衣の先生はI先生以外いなかったような気がする。

 

私は、典型的な「中学まではそこそこ頭が良い」タイプで、更にテニスの王子様にハマってソフトテニス部(軟式しかなかった)に入部して部長になって「そこそこ良い実績」を収めていたため、内申点ってやつも良かった。今から頑張れば地域で一番レベルが高い高校にも進める、というくらいだった(東西南北、って呼ばれてた)が、当時の私には特にそこに行きたい!という強い意志もなく、少し気になってたのは「軽音楽部」がある高校だった。ただ、少し今の学力より落ちるため、少し考えてみるか? という話をしたりもした。(「推薦のためにここまでレベル落とすのも勿体無いよなあ」と言われていた)当時今よりは肩身の狭かった「軽音部」を進路選びのきっかけにしていたのに、結構真剣に向き合ってくれていた気がする。

 

ただ、音楽をやりたい、という話は初めてしたので先生は驚いたようで、「○○は絵に進むんだと思ってた」と言われたのを覚えている。体育館の話でも書いたが、先生は絵がかけるようだった。とはいえ、実際に描いたものを見たことがあるわけではない。見たことがあるのは、「自画像」として先生がよく使っていた(テストの答案にふきだしでコメントがあったりした)眼鏡に白衣姿の、今でならラインスタンプで一発狙えるような「怪しい白衣のゆるキャラくらいだ。

絵を描くのがすきなオタクなら味わったことがあると思うが、中学生で「そこそこ」絵が描けると色々と描く機会がある。修学旅行の目標? テーマ? のイメージイラストとか、学級旗? とか。とにかく、色んな場所で私の絵は使われていた。あと美術の時間もわりと手本とされることもある。ただ「そこそこ」なのは自分が一番分かっていたので、絵は趣味止まりだと決め付けていた。そこを、先生は拾いあげて、「○○は絵を描くことを続けた方がいい」と言ってくれた。今考えると相当珍しいだろうなと思う。

 

2回目の進路相談でまた科学準備室のふかふかの黒い椅子に座ったとき、先生がごそごそと取り出したのは大きなキャンバス(サイズは詳しくないから分からないけど、結構大きかった)で、そこには鉛筆で描かれたもうそれはそれは「うまい」「すごい」としか感想が出てこないような大きな滝の絵があった。前回の進路相談を経てわざわざ持ってきてくれたらしい。「○○に見せたかった」「他のやつらには言うなよ」と、なんと先生と私の秘密ができてしまった! 白衣で、変な実験をよくやって、幽霊が見たくて、話上手で、さらに絵まで描けてしまう。ううん、すごい先生だなと思ったけど、先生自身は器用貧乏って言ってた。今の私も自分で器用貧乏だなとつくづく思うので、もしかしたら私に対して自分と似たところを感じ取ったのかもしれない。

 

結局、軽音部のある高校に進む道を選んだが、卒業アルバムに寄せ書きしてもらった時はあの「自画像」のゆるキャラがやばい目つきで花咲爺さんよろしく、木に灰をまいて花を咲かせているイラストに「才能の花をさかせよう」とメッセージをつけてくれていたのは、今でも凄く記憶に残っている。

 

◆先生、先生を辞める。

余談だが3年生のときに、先生の母親は亡くなってしまい、少しだけ先生は学校を休んだけれど、案外すぐ戻ってきて、普通に先生を続けていた。私たちはこの頃には先生のことがかなり好きだったので、お母様が亡くなってしまった衝撃より、先生が先生を続けてくれた方が衝撃的だったし、嬉しかった。2年生最初のホームルームは当時地獄のようだ、と思ったけれど、私たちはこの日の出来事のために一年前から心構えが出来ていたってことなので、結果だけ見ると、先生の選択は正しかったのかもしれない。(もうあんな初手お通夜状態は二度と味わいたくないけどね!)

 

そして私たちは卒業式で先生にひとりひとり名前を呼ばれて、無事に中学校を卒業した。今じゃ無いだろうけど、同時うちの学校は、卒業時の担任が転任する際、卒業生も終業式に参加して良い学校だった。2組の先生が転任する時は、サッカー部顧問だったこともあって多くの人が集まったし、5組の先生は確か、別の学校の教頭先生になった。部活の集まりの花束だったり、ひとり1本お花を買って高校の制服で終業式に参加するのも、結構楽しかった。

 

ある日、高校何年生の頃だったか、いや、もしかしたら専門学生の頃かもしれない。「I先生が先生を辞めた」と風の噂で聞いた。転任ではなく、教師自体を辞めた、という話だった。なんとなく、花は渡しに行かなかった。話を聞いたとき真っ先に、「I先生らしいな」と思って笑った。「変わり者」の先生のオチとしては、これ以上にない起承転結の「結」だった。そういえば先生は私たちの担任になる前にも3年生の担任で、連続で教え子を見送っており、「見送るのは向いてないんだよなあ」と小さな声で言っていたし、卒業証書をもらう私たちの名前を読み上げるときは、途中、声が震えていたな、と思い出した。


先生が何をしているのか、生きているのかすらわからないけれど、もしかしたらまだ山にのぼってるかもしれないし、念願の幽霊とあえたかもしれないし、ヘンテコな実験をしているかもしれない。
それでも私の中学二年間の担任は、「優しい変わり者」の先生だったことは、間違いない。


今の事務仕事で、担当外のデザインやラフの仕事を任された中で思い出したので10年以上前のことを書いてみた。ちなみにこうして、先生のおかげでゆるゆると、絵は続けています。